昭和46年08月18日 月次祭
私共が、信心をさせて頂いておかげを受ける。誰しもですけれども、自分の願いが、一日も早く成就いたします事を願わん者はおりません。けれどもそういう願いが、例えばすぐにかなえられたと致しましても、その願いの成就というのは、私共の真の助かりとか、または幸せというものには繋がらないと言う事であります。私共の願いと言うものが段々、おかげを頂いて行く、そこのために、私共が本当の事を分からせてもらう、本当の事をさせて頂いて行く内に成就するおかげ。
そういうおかげでないと、私共の本当の幸せに繋がる様なおかげにならないと言う事。神様にお願いをして、願いが願い通りに成就するという、皆がそう思いますよね。それん方が良い様にありますけれども、実を言うたらそうではありません。そこでその成就になりますまでのまぁ道すがらね。その時点その時点に置いて、だからそれを有り難く受けていく、神様のお計らいとして頂いていく、御事柄として頂いていくという所が大事なんです信心は。しかもそこ迄辿らせて頂くまでにね、やはり有難いと。
そして思いも掛けないおかげを神様が、その道すがらにも下さるものである。その神様の働きを、そこにね願いをしない事が成就していく。本当の願いと言うのは、そう簡単に成就するものではない。今日先程、前講を佐藤さんが、今日おかげを頂いておりました。お話の中に、こちらに参らせて頂いて、こちらの御神前に御祈念をさせて頂いておりますと、ここに神様が生きておわしますと言う実感の中に、日々信心修行させて頂いておるという意味の事を言っておる、神様が生きてござる。
そういう実感がひしひしとして来る。どこの教会にお参りしても神様はそう大して変わりませんもんね、奉祭様式などは。この連合会々長の平田さんが、始めて合楽に見えた時に、一番始めに言われたのは、「ここの神様は生きてござる。」それが一番。別に生きでものを言いつけなさる訳でもなからなければ、神様がこうやって動きなさるとが見える訳でもない。けれども、なんとうなしにそこにです、生きた働きを、私共の心に通うてくるものがあるね。
佐藤さんがここに参りましてから何日の日かにお届けしておりますように、もう消灯後の10時頃だったでしょうか、ここへ着きましたので、ですからあの、長い暗い廊下を通らせて頂きながら、まぁ大変なショックだったと言う。どういうようなショックか。やはり感動でしょう。明くる朝から、朝の御祈念に出て来る時、あの廊下を通って来る時にもうどうにもしようもないほど感動して感動してならないって言うね。と言う程しにです、成る程生きた働きがそこにも、ここにもあっておると言う事。
神様の働きが。そういう神様を、言わば心にキャッチさせて頂きながら、起きて来る事柄、それ事態その物をです、有り難く頂いて行く。その神様は、生き生きとして、成る程神様は間違いが無いなぁ、神様は、もう働きが生き生きとして感じられると言うおかげを頂いておりませんとです、そこに起きて来る事態、その時点、時点をです大事にしていく事が出来ませんね。それを大事にして行く事が出来ないと言う事はです、おかげへ向って一歩一歩近づいて行きよる、その道をあやまる事になるのです。
私はもう10年も前だったでしょうか、お夢の中にあの、なんち言うですかねあの懐中電気。私こうして持って、小さい懐中電気が、あれがレンズはレンズ、あの中の電池が電池という風にいくつもの道具がです、私歩いて行っている内に、それこそ落ちてるんです。ずっとこう拾いって最後まで拾、拾って終わりましたら、それがこう合わせますと、一つの懐中電気が出来た。一つでも拾いそこのうておったら、もう光にはなりませんのですからね、そうでしょう。
殻くただけは拾っておっても、中の電球一つを拾っていなかったらもうそれは、明るい道を照らすという程しの物になりませんもん。だからその、この事は有難いけれども、この事は困ると言うような頂き方ではなしにです、全てを成り行きとして、神様の働きとして頂く、御事柄として頂いて行くという生き方から、生まれて来る所の、それも一遍にじゃないです。神様はもう、そんなら懐中電気の懐中電灯をです、そのそこに拾わせ、ここに拾わせせづにです。
もうちゃんと下さりゃ良い様なもんだけれども、そういう訳にはいかん。またそれでは、私共が信心にならない。拾うて行く内に本当な事が分らせてもらうね。今朝からあの御理解の中にも申しました様に、四国の川上さんが手紙を長々下された。あるお伺い事があった。先生すいませんけれども、これに対するご返事を下さいちゅう事やった。私はもうだいたい手紙を書かない事にしておる、書かない主義なんである返事でも。
どうでも要る時には、修行生の方に御神意をこう頂いておるから、こう書けと言うくらいですけれども、川上さんの場合もう2、3日たちますから、昨日私が一言その頂いた事だけ書こうと思うて、小さい紙切れに書かせて頂いてお手紙拝見いたしましたと書いたら、いたしましたん所が書いて、しゃっち間違えて書くんですよ。二枚書いても、今朝から皆さんに見てもろうた。
それでまだおかしいなぁと思わなかったね、そして、3枚目にようやくその頂いた事だけを書かせて頂いて、この手紙ちっと出させて頂こうと思うたら、神様が出す必要が無い事を頂いた。それでそのまんまほっておったら、それから2、3時間後に電話がかかって来た、四国から。先生先日から、実はこうやってね、書いたんだけれれども、神様出さんで良いとおしゃったから出さなかったけれど、電話での方がええね、こう細やかにご返事が出来て。とその返事と又御理解を一口、言わせて頂いた。
神様は本当な事をさせようと、川上さんになさっておられる訳なんですね、だからおかげを頂くまでにです、本当な事が分かっていかなかったら、いくらそれこそ10年、いや千年万年待ったところでそれは駄目です。ですからその事がね、んなら難しいかと言うと楽しいんです。今日そこんところを、佐藤さんは話しておりました。表で御用をさせて頂くでも、家で御用させて頂くでも、有難い有難いでさせて頂くと言う。今までかつて感じた事の無い感動。
まぁだ光昭と友達と言うですから、学院こそもう2年行ってますけれども、高校卒業してすぐ行ってるんです。まぁだ二十歳の若さで。有難い有難い、生きた神様を前に拝ませて頂くと言う事はもう、もう日々が感動の生活である。大体この人は「てき」の稽古を学院でさせて頂いておった。所が一年あまりは、稽古したんだけれども、その耳が聞こえなくなった。片一方の耳が。だからこの楽器という物をその自分の耳で、その音律という物をキャッチしなければなりませんから、その笛も止めておった。
今日も偉えらいここで感激してからおとどけをされるんです。先生実はあのこちらの耳が聞こえませんでした。所が今日1時のご祈念を頂いて後に、はっと気が付いたら、今までと昔と一応両方の耳が聞こえるね。それこそびっくりしておかげを頂いた。そういうね、何ものかが、ここの御広前にはあるんです。だからそういう御広前でお互い信心の稽古をさせて頂いておるのであるからですね、全てがね心の中に有難い有難いと言う、外の掃除をするでも、お家で御用させて頂くでも有難い有難い。
そこで起きて来るその事態一つ一つを、有難いと受けて行けれる。私も今日、昨日一昨日、親教会に祝詞が出来ておるからっと言うので、頂きにまいりました。それで私は祈願祭ですから、こちらのただ今信心倍増運動というのがあっておるから、その事も祈願文の中に入れて頂こうね。又は来年は、いよいよここの5年の式年祭でその委員会が発足して、記念事業までもう思いたつ事が具体的に決まったから、そう言う事の速やかな成就の事も、祝詞文の中に書いて頂こうと思うておった。
ところが親先生のお話を聞かせてもらうと、親先生のお話を聞かせてもらうと、親先生の言われるとが本当だなぁと。と思うて帰ってきた。いわいる主観の相違であるね。私の感じておる所と、親先生の感じておられる所は、私が赤なら親先生は白ん所を感じておられる。しかもその祝詞文は、この頃親教会の夏の祈願祭があったように、口語体である。もちろん口語体が悪いのじゃない。けれどもいかにも信者に聞かせよう、信者に分からせよう、そういう物が見え過ぎておる、所が親先生はそれがよかと仰る。
だからこそ信者に分からせなにゃらんからこそ、口語体で書いてあるんじゃちおっしゃる。私は信者に分からせんでん、神様だけが分かってもらやぁ信者はおかげが頂きさえすりゃよかと思ったんです。そんなに違うんです。頂いて帰ってから、まぁそれを、1、2回読ませて頂きながら思うんです。何時になったら自分の思うような御大祭が出来るじゃろうか(笑い)もう祭文いわいるお祝詞という物は、いわいる教会長の本当の思いと言うものが込められてとかなきゃいけん。
又は願いのお祭りであるなら、そのその教会が願いとする所が書かれなければならんはずである。それで、親先生の願いが書いてあるだけ、私の願いは書いちゃなか。所がです、私は教えというのは有難い。昨日の朝の御理解を思い出した。若先生の結婚式の準備委員のまた、準備と言う様な事でこの頃から、昨日一昨日、4、5人こう集まられて色々協議をなさった。どういう風にすると言う事もA、B、Cの3段階にも分けて色々と検討された上にも検討された。
まぁどれがどう言う風になるやらまだ分からん。でそのことを神様に私お願いさせて頂いておりましたらです、ね、私の心眼に頂くのが田園風景であるね。それにこうまぁそこの道があるなら道があるといたしましょう。その道の横が小さい溝になっておる。小さいといえば随分広い溝です。雨が降ったならこう水が流れるだろうけどもからの溝だった。その溝の向こう側にその大きな家がある。ですからその家の方へ、その家へ行こうと思えばこの溝をわたってこうやって行きゃ、もうすぐ家はそこである。
けどそん溝を渡ったり、畑ん中を行ったりせんならん。こう向うを見るとその溝の先の方に、その家の方へ向ってのこう橋が架かっておる、ははぁあの橋を渡って行けば、正面玄関に入られるんだなぁという感じのご心眼であった。ははぁ例えば、ならその結婚式の、どういう風にさして頂くかと言う様な事でも、まぁだまぁだああでもなかろうか、こうでもなかろうか、御神意にかなうような、これはもう教会挙げての式ですから、神様のお心にかなうような式典、式典ちゅう式にならなければならないという。
これからまぁだ、色々検討に検討が加えられていった。もうこれでよかくさいち、これでいくるばいち言うて決めて行くという事は、丁度溝をわたって行くような物、着くとは着くやろうけれども行く様、様が悪い。畑ん中をあったって溝ん中を渡っていったりせんならん。それよりもですやはりずっと行く所に行って、橋があるのだからしかも正面玄関からこう入って行くという行き方である。それこと思い出した。ははぁ私と善導寺の中でもそうだなと、だからこの時点を私は有り難う頂いていかなければならん。
それは口で言う事と心が違う訳です例えば祝詞を奏上するでも。私はその様な事はどうでもええと思いよる事を言わにゃならん。けれども神様心の、本当の願いはこういう事ですと、言うようなお祝詞を読まにゃならんとですけれどもね、そういう本当の事が出来る事のためには、まぁだ時間がいるね。本当の事が出来る為、にこの時点を粗末にして、いんにゃ先生そげん所は私は何時もせんけんこうしますと、言うて行くのは、丁度溝を渡って畑を渡っていよいよ着く。
行くようなものだと思わせて頂いたら、あぁこの事も有り難いなと思うね。まぁだまぁだ、私共どんが想像しておる以上のおかげは頂けれる、向うの方に橋がある、そこまでたどり着いて、その橋を渡って、正面玄関から入る行く時期が必ず来るんだ、その間が信心なのだ。だからこの信心、ここのところを大事にしなければならないと言う事が、お互い分かるでしょう。
昨日は、北海道の「おつじ先生?」の所からお礼の手紙が来た。一緒に鹿児島の種子島から、お礼の手紙と二十日のご大祭には、お引寄せ頂きますようにと言う事が、書いてある手紙が来た。日本の北のはしと南のはしである。北海道にはもう4、5日もしたらストーブを出しますと書いてあった。種子島のはもう取り入れがすみました、と書いちゃる。(笑い)同じ日本の中でね、けれども私はそれの、北海道と種子島の手紙を一緒に頂いて、はぁ神様の合楽の御比礼だなと思いましたね。
素晴らしいでしょうはが。そういう働きが何時もあっておるんだ、合楽には。居今乍らにして、北海道の様子が実感として分かり、居乍らにして種子島の様子が実感して、御結界で分らせて頂けれるね。今日はお月次祭に、あの洋酒のお供が来てありましたでしょう。あれはこの頃、外国旅行をした人がね、イギリスからスコッチウイスキーを親先生へち言う、てから買うてきとった。参って来るたんびに忘れる。
それが今日持ってきた。したらもうもう一つのが、アメリカに旅行された方がね、これはあちらの、まぁ一番最高のブランデイだって言う、やっぱり洋酒を持って来た。イギリスとアメリカんとが一緒に集まったここにね、もうねなんここの場合は何時もそうです、そういう例がございますけれどもです、なんとうなしに合楽の御比礼をそこに感じる訳にはまいりません。そりゃ洋酒が来たからと言うんじゃないですね。北と南のそれがです、ここに一つに成れると言う事ここで。
だからこれは、今日のお月次祭にはもうお供して下さいて言うて、お三方一台作ってもらったね。そういう生き生きとした神様の働きね、アメリカとイギリスから集まって来るものをです、同じ日にここで集めようとされるほどしの働き。北のはしと南のはしを、同じ合楽の信者さんの思いが、ここに一つに集めなさるほどしの、神様のご威力ね、そういう働きの中に、私共は日々信心の稽古をさせて頂いておるのである。
ですから、そこん所をキャッチ出来たら、はぁ不思議な事じゃあるな、有難い事じゃあるなと、それが分らせて頂く信心にならせて頂いたら、その時点時点に起きて来る事柄、それを御の字を付けて頂く事が出来る。成る程このようにして、成る程私の願いは思うようにはなっていないけれども、その思う様になっていない事その事がかえっておかげなのだ。自分には都合の悪いごたるけれども。
だからこれを、私共には分からんけれども、神様の願いはここに成就しておるんだとして、その事を大事に頂いて行くと言う、頂きかたをして行く内にね、電池をひらい、たまをひらいね、様々な、いわいる、そのう懐中電気に必要な部品がずっと落ちているのを拾うていって、最後にはピカッと光るようなものなんだ。だからどんなひとことだってお粗末には出来ない。そういう私は信心を、実の詰った信心だと言う風に思うね。今言う明日は御大祭の御準備、そして夜は、前夜祭が奉仕されます。
いよいよ、ただ今申しましたような、これは祝詞だけの事ですけれども、けども口で申し上げる事と、私の心の中で祈っておる事とは、だからちっとは違う。けれども読まん訳にはいかん(笑い)。それも神様のご都合なのである。それは私と善導寺による主観の相違なのだから仕方が無い。仕方がないではない、そういう所をです通らせて下さって、その事を有り難く、受けさせて頂けれる信心こそが大事である。
何時になったら自分の思うようなお祭りが出来るだろうか。そういう思いで神様にもし向ったら、そういう考えは、そういう思いでの心は神様は受け取って下さらんだろうけれども、これも神様の間違のない、御働きとして頂いて行くうちにね、いわゆる本当の橋をわたらせてもらう、正面玄関から入れれるおかげが段々頂けて来るようになる。皆さん一つそこん所をですね。
本当に分からせて頂いて、確かに合楽にはね、アメリカとイギリスのものを1日にして、同じ時に同じ日に集めなさる程しの御威力。威力神様の。北と南から来る手紙をです、御結界のここに一緒に、私に見せて下さるだけの働き。そういう働きがあっておるのでございますから、お取次を頂いて日々起きて来るその事柄事態も、絶対間違いの無い神様の御働きであると分らせて頂いて、その時点でそれを有り難く受けさせてもらうという生き方こそ、いわゆる、神様の願いが成就する。
私共の願うておる願いの成就する事、等とはもうてんで違い、違うと言うか人間の願いと神様の願いが違うはず。天地程の開きのある、本当それこそ夢にも思わなかった様なおかげが展開して来る。その間に私共は、夢にも思わなかった様なおかげに向って、進んで行くその道すがらに、これは願いもしない事なんだけれども、佐藤君が聞こえない耳が聞こえて来る様になったと言う様なおかげを頂き頂きですから、有難いでしょう。
どうぞ。